アート / コラム・論文
Posted on 2025-08-02
見ることの不確かさと印象の生成 ――クロード・モネのロンドン《国会議事堂》シリーズにおける視覚知覚の再構築
はじめに
クロード・モネ(Claude Monet, 1840~1926)は、印象派の画家として「瞬間の印象」を描くことを追求したことで広く知られている。しかし、その「印象」とは単なる視覚的な再現ではなく、「見る」という行為自体の構造や限界、さらには知覚の主観性に深く関わる問題である。
本稿では、モネがロンドン滞在中に手がけた《国会議事堂》シリーズ(1900~1904)を主な素材とし、彼の作品における霧・光・色の変化が、視覚経験における「不確かさ」や「流動性」をどう捉えているかを論じる。
そして、現代の知覚心理学や視覚科学の知見と照らし合わせながら、モネの絵画を「知覚の実験」として再評価することを試みる。
視覚の「現象」化とモネの方法論
ロンドンのテムズ川沿いから望む国会議事堂は、モネにとって単なる建築物ではなく、「光と大気の移ろいの背景として浮かび上がる存在」であった。彼は1900年から数回にわたってロンドンを訪れ、数十点に及ぶ《国会議事堂》を描いている。
これらは同一の構図をもとに、異なる時間帯、異なる天候、異なる光の条件下で制作され、しばしば霧に包まれ、輪郭が曖昧に溶け出している。
このシリーズにおいて注目されるのは、建物そのものよりも、それを包む空気、光、霧、そしてそれらがつくりだす印象の不確かさである。建築の形態はもはや明確ではなく、見る者は「見えている」のか「感じている」のかの境界をたえず揺さぶられる。
モネは、物体を描くことよりも、「見るという行為のなかで何が知覚され、何が知覚されないのか」という問いに取り組んでいたのである。
知覚心理学との接点:曖昧さと補完
視覚心理学の分野では、視覚とは網膜上に結ばれた像をそのまま受け取るものではなく、経験・記憶・予測によって補完される知覚の産物であるとされる(例えば、リチャード・グレゴリーによる「仮説検証モデル」)。
モネの《国会議事堂》においても、視覚的情報は曖昧であり、見る者はその不完全な情報をもとに、「これは建物である」「これは夕陽である」「これは霧に包まれた街である」と再構成していく。
また、人間の視覚はコントラストや色温度、環境光などに大きく影響を受ける。霧の中では距離感や境界線が曖昧になり、光の波長によって色の知覚も変化する。モネが描く紫や青の霧は、こうした光と空気による視覚のゆらぎそのものを描き出している。
つまり、彼の絵画は「何を見たか」ではなく、「どのように見えたか」を問題としており、それはまさに知覚科学における問いと一致する。
「見ること」の条件化と現代的意義
モネはまた、絵画において観察者の位置や光の状態によって世界の見え方が変化することを描いた最初期の画家の一人でもある。特に《国会議事堂、夕陽》では、建物がほぼ影となり、空と水面だけが色彩の変化を担っている。
こうした表現は、現代美術における「知覚の条件化」のテーマ――例えばジェームズ・タレルの光と空間のインスタレーション作品――へと繋がる重要な先駆であるとも言える。
モネの描いた「霧の中の国会議事堂」は、もはや国民国家の権威や構造ではなく、「見るという営為に対する根源的な問い」を表す記号へと変化しているのである。
結論
クロード・モネの《国会議事堂》シリーズは、絵画という媒体において視覚経験の「不確かさ」と「生成過程」を主題化した、きわめて現代的な試みである。視覚は単なる感覚ではなく、知覚によって形づくられる現象であり、モネはその現象性を、光と霧という可変的な要素を通して表現した。
知覚心理学や視覚科学との対話を通じて、モネの絵画は「美しい風景」の域を超え、「私たちは何を、どのように見ているのか」という根本的な問いを我々に投げかけ続けている。
(M&C編集部 蓬田修一)
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