コラム・論文 / 文学

Posted on 2025-08-03
『古今和歌集』仮名序に見る日本文学理論の萌芽


『古今和歌集』に収められている和歌は、日本美術においてしばしば参照されている。そこで、ここでは『古今和歌集』仮名序に見る日本文学理論の萌芽――紀貫之による和歌観の成立とその意義――と題して、『古今和歌集』の中でも序文(仮名序)に焦点を当てて、論考を試みた。

はじめに

『古今和歌集』(以下、古今集)は、延喜五年(905年)に醍醐天皇の勅命によって成立した最初の勅撰和歌集であり、日本の国文学における画期的な存在である。

その冒頭に置かれた「仮名序」は、撰者の一人である紀貫之によって記されたが、これは単なる序文にとどまらず、和歌の本質・効用・歴史・作法を体系的に論じた、日本最初の文学理論書として位置付けることができる。本稿では、「仮名序」における文学理論的要素を抽出し、その理論的・文化的意義について考察する。

一、和歌の本質をめぐる理論

仮名序の冒頭に記された有名な一節――「やまとうたは、人の心をたねとして、よろづの言の葉とぞなれりける」――において、紀貫之は和歌が人間の心情の発露から生まれるものであると定義している。これは、詩歌とは外界の模倣ではなく、内面的感情の表出であるという、極めて近代的な文学観である。

さらに「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と続けることで、歌は経験によって触発される「感情」の表現であることが強調されている。

この立場は、中国詩における「詩言志(詩は志を言うなり)」という古典的理念とも共鳴するが、より情感的・個人的な視座に立っている点で、日本固有の文学精神の萌芽と見ることができる。

二、歌の効用と社会的役割

仮名序では、和歌の効用として「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ…」という誇張的な表現で、言葉が持つ霊力(言霊)や感化力を説いている。

この記述は単なる修辞ではなく、歌が政治・儀礼・宗教・恋愛といった様々な場面で人間関係を調整する力を持つことを示している。すなわち、歌は単なる芸術ではなく、社会実践的な文化装置としての役割を持つとする見解である。

このように、紀貫之は歌を通して人の心を動かす「力」としての文学を理論化しており、後代の勅撰集や連歌・俳諧においても、この観点は受け継がれていく。

三、歌人と歌の「品格」に関する序列意識

仮名序の中では、古代の六歌仙(在原業平・小野小町・僧正遍昭ら)に言及し、それぞれの個性や優劣について論評している。たとえば小野小町については「いとをかしきをのこして、強からず、あはれなるやうにて、つきせぬことをかけり」と評し、技巧や感情の繊細さに価値を見出している。

これは、単なる個人的感想ではなく、和歌の優劣を判断する美的基準(=批評理論)を提示している点で注目される。すなわち、「歌人とは何か」「良い歌とは何か」に関して、一定の価値基準と評価軸を提供しており、和歌の芸術性を論じる体系的な試みと見ることができる。

四、仮名序の文体と「語り」の装置

仮名序は、「をとこもをんなも、いにしへの人の心をまねぶればなり」と述べるように、過去の伝統を継承する意志を持ちつつ、仮名という話し言葉に近い表現形式を採用することで、歌の「こころ」が読み手に届くことを重視している。

これは、中国語=漢文が権威ある言語とされていた時代にあって、日本語(仮名)による文芸表現の正当化を図るものであり、以後の国文学の発展に決定的な影響を与えた。

また、「女のふりをして書いた」とされるこの序文の語りの戦略は、和歌における感情の普遍性と受容の柔軟性を象徴するものとして、現代のジェンダー論的視点からも注目されている(石川淳子 2020)。

おわりに

仮名序は、単なる勅撰集の前書きではなく、紀貫之によって構築された文学理論・批評・文化論の複合体である。その中には、和歌の本質、歌の効用、美的基準、言語の選択など、多岐にわたる視点が凝縮されている。

日本文学がその後展開していく過程において、この仮名序が持つ理論的枠組みは規範としての位置を占め続けることになる。したがって仮名序は、日本文学における最初期の「文学理論書」として、いまなお再検討の価値を持つのである。

(M&C編集部 2025/8/3)


参考文献(例)

紀貫之『古今和歌集仮名序』岩波書店、1990年

佐佐木信綱『和歌文学大系 古今和歌集』明治書院、1971年

石川淳子「仮名序とジェンダー視点の交差」『国文学研究』第67号、2020年

中西進『日本の古典をよむ・古今和歌集』筑摩書房、2005年

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