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Posted on 2025-03-21
「裏切り」の西洋絵画 名作10選


中世から西洋絵画では「裏切り」にまつわる絵画が描かれてきた。

特にユダの裏切りは絵画史の中で、何度も取り上げられてきた。

西洋絵画史における裏切りの絵画を10作品紹介する。

(M&C編集部・蓬田修一)


レオナルド・ダ・ヴィンチ《最後の晩餐》The Last Supper(1495~1498年)

イエス・キリストと12使徒による最後の晩餐を題材とした作品だ。

この「最後の晩餐」が「最後」な理由については諸説ある。

1 イエスはこの食事の後、捕らえられ、翌日十字架刑に処せれらた。処刑される前に食べた最後の食事だった。

2 イエス自身がこの食事が最後になることを知っており、食事中にそのことを預言した。

この作品は、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、私を裏切ろうとしている」と言った瞬間を捉えている。

裏切ったのはユダである。


「最後の晩餐」フィリップ・ド・シャンペーニュ1652年頃

手前左に座るユダは、手にキリストを裏切る代償にもらった銀貨の袋を持つ。

弟子らとともに食卓についたイエスは、食事の前に自分を裏切ろうとする者を指摘する。


ジョット・ディ・ボンドーネ《ユダの接吻》Kiss of Judas(1304~1306年)

ジョット・ディ・ボンドーネは、イタリアで活躍したゴシック期の大画家である。

イエスは日々、ユダヤの民と触れ合い、彼らへの影響力を増し続けていた。

ユダヤの司祭らは、そんなイエスのことを苦々しく思っている。

ここでイエスにとっての裏切り者が現れた。12使途のひとりユダである。

銀貨30枚を条件にイエスの身柄を引き渡す密約を、ユダヤの司祭らと交わしていたのだ。

イエスら一行はゲッセマネという場所で祈りを行っていた。

そこに司祭長や兵士らを連れてきたユダは、祈りを終えたイエスに接吻をした。

ユダは司祭長らと「わたしが接吻する人がイエスである」ということを、事前に示し合わせていたのである。

イエスを特定できた司祭長と兵士は、イエスを取り押さえた。

イエスは翌日、十字架刑の処されて亡くなってしまう。

本作では、画面のほぼ中央に、イエスへ接吻をおこなうユダの姿が描かれている。

本来ならば、接吻という行為は愛情を示すものだ。

しかしここでは裏切りを示している。

そのことが、見るものに罪の重さを倍増させる。

加えていえば、イエスと行動をともにしていたほかの弟子たちも、その場から逃げ出し、ペテロでさえもイエスのことを「知らない人だ」と嘘をついた。

弟子たちは誰もがイエスを裏切ったのである。


ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ《キリストの捕縛》The Taking of Christ(1602年)  

カラバッジョは16世紀末から17世紀初頭にかけて、ローマなどで活躍した。

演劇の一場面を髣髴とさせるような、強烈な明暗法を駆使した画風は、のちのバロック絵画に大きな影響を与えた。

カラバッジョは画家としては一流だったが、プライベートでは問題の多い人間だった。

素行がとても悪く、殺人まで犯してしまう。

逃亡したが改心し、ローマにもどる途中で亡くなった。

この作品であるが、ユダの裏切りを描いたものである。

イエスはゲッセマネの園で祈りを捧げた後、弟子たちとともに帰路についた。

その途中、弟子のユダが祭司やローマの兵士たちを伴って近づいて来た。

ユダはイエスに近づくと接吻した。

ユダは、祭司や兵士たちに自分が接吻する相手がキリストであると教えていたので、キリストはすぐさま兵士たちに捕らえられた。

この絵は、ユダの接吻を合図に、兵士たちが一斉になだれ込み、キリストを捕えようとした瞬間である。


アンソニー・ヴァン・ダイク《キリストの捕縛》The Betrayal of Christ(1620年頃)

ヴァン・ダイクは、ルーベンスを師にもつフランドル出身の画家だ。

イングランド王族の肖像画を描き、イングランドで大きな成功を収めた。

肖像画のほか、宗教画や歴史画も描いている。

この作品は、ユダの裏切りにより、イエスが捕まる瞬間を描く。

暗闇の中で、黄色い衣服に身を包んだユダがイエスに接吻している。

ユダの動的な表現に対し、イエスは抵抗することもなく事態を静かに受け入れている。

画面左下では、イエスの弟子ペテロが、祭司の従者マルコの耳を切り落としている。

背後ではローマの兵士が、松明を掲げながら、イエスを取り押さえようとする。

裏切るユダと、それを予知しながら受け入れるイエス。

荒れ狂う男たちが騒ぎ立てているなか、イエスひとりは静かにたたずんでいる。


レンブラント・ファン・レイン《ペリシテ人に目を潰されるサムソン》The Blinding of Samson(1636)

本作は旧約聖書にあるサムソンの物語の有名な場面である。

サムソンはイスラエルの指導者(士師=判事)であった。

イスラエルに住むペリシテ人を乱暴なやり方で裁き、ペリシテ人の憎しみをかっていた。

ペリシテ人はサムソンに立ち向かおうとするが、サムソンは怪力の持ち主であるため、それもままならなかった。

サムソンには重大な弱みがあった。それは、髪の毛を切られると、たちまち怪力を失うということだった。

ところが、サムソンは宿敵ペリシテ人の美女デリラの魅力に溺れて、夜ごとデリラとともに過ごすようになる。

デリラは怪力の秘密を聞き出そうとするが、サムソンは答えない。

ある日、デリラからまた同じことを聞かれたとき、ついに寝物語に自分の力の秘密は髪にあることをもらしてしまう。

それを聞いたデリラは、サムソンが寝ている間に彼の髪を切り取った。

髪を切り取られ無力となったサムソンに、デリラに引き入られたペリシテ人仲間が襲い、盲目になってしまった。

サムソンは牢獄に入れられるが、まもなく髪の毛が伸びてきた。

神に力が取り戻せるように祈ると、怪力が戻った。

サムソンは、宴会を開いているペリシテ人たちに襲い掛かり、ペリシテ人の神殿を打ち壊し、自分も死んだ。

この作品は、ペリシテ人がサムソンを襲う瞬間を描いている。

背後には、サムソンの髪の毛とハサミを持って逃げていくデリラの姿がある。

なお、ペリシテはパレスチナの語源であるが、今のパレスチナ人とペリシテ人とは直接のつながりはない。


フランシスコ・デ・ゴヤ《1808年5月2日、マドリード》The 2nd of May 1808 in Madrid(1814)

ナポレオンは1799年、フランス共和国を設立し、1804年には皇帝に就任した。

ナポレオンはスペインに対し、両国でポルトガルを征服し、それぞれポルトガルの3分の1を譲り受け、残りの3分の1をスペインのゴドイに「アルガルヴェ王」として与える提案を持ちかけた。

ゴドイとは、このときスペインの実権を事実上握っていた人物である。

しかしナポレオンはスペインを裏切り、1807年12月、スペインに進駐し支配した。

ナポレオンは、スペイン王位を自分の兄ジョゼフに与える。

スペイン民衆はナポレオン支配に反発し、スペイン独立戦争が勃発した。

1808年5月2日、スペイン市民はフランスの占領に対して暴動を起こした。

ゴヤはその蜂起の様子をこの作品で描いた。

暴動を鎮圧する、馬に乗るフランス兵の行く手を、武器を持ったスペイン人が阻んでいる。


フランシスコ・デ・ゴヤ《1808年5月3日、マドリード》The 3rd of May 1808 in Madrid(1814)

前作の続きを書く。

スペイン人の暴動は、翌日未明にはフランス軍により鎮圧された。

フランス軍はこれを鎮圧し、「反乱者」を銃殺刑に処した。

この作品は、このときの射殺場面を描く。

ひとりの男が明るく照らされ、処刑隊の銃が向けられる。

男は両手を大きく広げ、その右手には殉教者の証である聖痕が見える。

銃を構える処刑隊は、男を直視することができずに、全員が目を伏せている。


ジャン=レオン・ジェローム《カエサルの死》The Death of Caesar(1867)

ジェロームは19世紀後半に活躍したフランスの画家だ。リアリズムとオリエンタリズムとを融合させ、新しい絵画を描いた。

紀元前 44 年(共和制ローマ末期)、ユリウス・カエサル(ジュリアス シーザー)は、反対派に暗殺された。

この絵は、殺害の後、反対派たちが歓声を挙げながら、立ち去る瞬間を描いている。

画面左下には、カエサルの死体が置き去りにされている。


ヴィンチェンツォ・カムッチーニ《ユリウス・カエサルの死》The Death of Julius Caesar (1805年頃)

カムッチーニは18世紀から19世紀にかけて、ローマなどで活躍した新古典主義スタイルの画家である。

新古典主義とは、それまでのバロック、ロココの装飾的・官能的な画風に反発するようなスタイルだ。

確固とした荘重な様式を求めて、古典古代とりわけギリシアの芸術が模範とされた。

本作だが、紀元前 44 年 3 月 15 日、暗殺者たちがカエサルに襲い掛かる。

周囲では多くの人々が恐れおののいている。







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