文学

Posted on 2025-12-15
「書かれていないこと」をどう研究するのか ――『土佐日記』研究から考える文学研究の方法論 


2025/12/15
M&C編集部・蓬田修一

紀貫之が『土佐日記』を書いた理由について、私たちは重要な事実に直面する。それは、紀貫之自身が、その執筆動機をどこにも明示していないという点である。

『土佐日記』本文にも、他の文章や和歌にも、「なぜこの日記を書いたのか」を直接説明する言葉は見当たらない。

それにもかかわらず、国文学の研究者たちは長年にわたり、紀貫之の執筆動機について多くの議論を積み重ねてきた。

この状況に対して、「史料に書かれていないことを論じるのは、学問として正しいのか」「それは文学批評とどこが違うのか」という疑問を抱くのは、きわめて自然で、かつ重要な問題意識である。

☆   ☆

まず確認しておくべきことは、現在の国文学研究は、事実に基づかない自由な想像を許しているわけではないという点である。

研究者が「紀貫之はこう考えていたに違いない」と断定的に作者の心理を語ることは、学問としては認められない。

史料に反する推測や、個人的な感情移入に基づく解釈は、現在の研究では明確に排除される。では、それにもかかわらず、なぜ「執筆動機」という問題を論じることが可能なのだろうか。

☆   ☆

この問いに答えるためには、「研究者が何を対象としているのか」を正確に理解する必要がある。

重要なのは、研究者が扱っているのは作者の内心そのものではないという点である。

研究の対象はあくまで、『土佐日記』というテクストそのものであり、その構造や表現のあり方である。つまり、研究者は「紀貫之が何を感じていたか」を直接知ろうとしているのではなく、「この作品は、執筆動機をどのように語らずに構成しているのか」を分析しているのである。

☆   ☆

たとえば、『土佐日記』では、旅の行程や日付は非常に細かく記されている一方で、語り手の意志や決断はほとんど説明されない。

また、娘の死という重大な出来事も、直接的な叙述を避け、和歌や沈黙を通して間接的に示される。

これらはすべて、誰が読んでも確認できるテクスト上の事実である。研究者は、こうした事実の配置や反復から、「この作品では、動機が意図的に語られていない」という構造を読み取るのである。

☆   ☆

ここで重要なのが、実証主義と解釈の関係である。文学研究は、史料の確定や本文校訂といった実証的作業を基盤として成立している。

しかし、文学作品は単なる事実の集積ではなく、意味を持つ表現である以上、「どのように書かれているか」「なぜこのような形を取っているか」を問わずにはいられない。

20世紀後半以降の国文学研究では、史料を重視しつつも、テクストの構造や語りの仕組みを分析する解釈学的アプローチが不可欠なものとして受け入れられてきた。

☆   ☆

では、このような研究と、文学批評との違いはどこにあるのだろうか。両者が似て見えることがあるのは事実であるが、決定的な違いも存在する。

研究においては、第一に「史料的制約」が必ず明示される。「動機について直接の証言は存在しない」「これはテクスト分析に基づく推論である」といった前提が、論文の中で共有される。

第二に、研究の結論は反証可能でなければならない。別の研究者が、同じテクストを用いて異なる構造分析を提示できる余地が残されている必要がある。

第三に、研究では個人的な感動や価値判断は抑制され、方法と根拠の透明性が重視される。

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一方、文学批評は、作品の現代的意義や価値を積極的に評価し、読みの独創性を前面に出すことができる。

研究が「共有可能な知」を目指すのに対し、批評は「刺激的な読み」を提示することに重きを置く。この違いが、現在の国文学界ではおおむね意識されている。

☆   ☆

『土佐日記』研究における執筆動機論は、実は「動機の内容」を確定しようとする試みではない。そうではなく、「動機が語られないという事実が、どのように作品を成立させているか」を明らかにしようとするものである。

つまり、研究者が問うているのは、「紀貫之はなぜ書いたのか」という心理的問いではなく、「この作品は、なぜ動機を沈黙させる構造を持つのか」という文学的問いなのである。

☆   ☆

現在の国文学研究は、実証主義と解釈の間にある緊張関係を自覚的に引き受けながら進んでいる。

史料に基づく厳密さを失わずに、しかし「書かれていないこと」や「沈黙」もまた、テクストの重要な要素として分析する。その姿勢こそが、文学を文学として研究するための方法論であると言えるだろう。

☆   ☆

『土佐日記』をめぐる議論は、一作品の解釈にとどまらず、「文学研究とは何を、どこまで語りうるのか」という根本的な問いを私たちに投げかけている。

その問いに向き合うこと自体が、文学を学ぶという行為の核心なのである。

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