アート / コラム・論文
Posted on 2025-08-03
ゴッホの精神疾患と創作活動の関連性――「狂気の画家」像の再考
星月夜
はじめに
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890)は、近代絵画史上において特異な位置を占める画家である。彼の作品は、激しい筆致、鮮烈な色彩、独特な構図によって知られ、とりわけ晩年に描かれた『星月夜』(1889)や『アイリス』(1889)などは、近代絵画の象徴的作品として高く評価されている。
その一方で、ゴッホは精神疾患を抱えた芸術家としても知られ、「狂気の天才」としてのイメージが広く流布してきた。しかし、近年の美術史・精神医学・文化研究の分野では、この「狂気=芸術」の単純な等式に疑問が呈されている。
本稿では、ゴッホの精神的疾患と創作活動の関係性について、具体的事例をもとに考察しつつ、そのイメージの再構築を試みる。
精神疾患をめぐる伝記的事実と診断の変遷
ゴッホは1888年末、南仏アルルでの生活中に精神的危機に陥り、有名な「耳切り事件」を引き起こした。その後、彼はたびたび発作を起こし、1889年には自らサン=レミの精神療養所に入院している。
当時の医学では診断名が確定しておらず、近年では双極性障害、てんかん(側頭葉てんかん)、ボーダーライン人格障害、鉛中毒、さらには自己中毒性のてんかんなど、さまざまな可能性が議論されている(Blumer, 2002)。
重要なのは、これらの精神的症状がゴッホの芸術的創造にどのように作用したかという点である。一部の研究者は、彼の創作は発作時やその直後には停止し、比較的症状が安定していた時期に集中して制作が行われていたと指摘している(Lubin, 1996)。
このことは、「狂気が創作を生む」という通俗的な理解とは異なり、むしろ創作は苦悩と狂気のなかでの秩序回復の手段であった可能性を示唆している。
創作と精神状態の関係――サン=レミ時代の事例
サン=レミ療養所での一年間(1889~1890)は、ゴッホの創作活動が極めて精力的であった時期である。彼はこの期間に約150点以上の油彩画と数多くの素描を制作しており、『星月夜』、『アイリス』、『オリーブ畑』などがこの時期の代表作である。
たとえば、『星月夜』(MoMA蔵)は幻想的な夜空と渦を巻く星々を描いており、その筆致と色彩には心理的緊張が表れている。だが、この作品が描かれたのは、彼が比較的落ち着いていた療養期間中であり、発作中の作品ではない。
彼自身、弟テオへの書簡で「夜の空の観察によって心が静まる」と語っており(書簡第777号)、自然を描くことが精神の安定と深く関係していたことがわかる。
また『アイリス』は、療養所の庭に咲く花を観察し、明快な色彩と構成で描かれており、破綻的というよりは秩序的・内省的な美が強調されている。これらの作品は、精神の混乱から生まれたのではなく、むしろ混乱を癒すための儀式としての絵画という側面を強く持っていた。
「狂気の芸術家」像の構築とその批判
ゴッホの死後、彼の芸術的評価は急速に高まり、「狂気に取り憑かれた孤高の天才」というイメージが定着していった。このイメージ形成には、弟テオの妻ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルによる書簡の出版(1914年)や、20世紀前半の表現主義美術運動の文脈が大きく寄与している。
とりわけ、アントナン・アルトーが1937年に発表した『ゴッホ――社会によって狂わされた者』は、ゴッホを社会不適応者・殉教者として位置づけ、「狂気が真理を語る手段」であるというロマン主義的解釈を補強した。
しかしこのような見方は、精神疾患の現実的苦悩や医療的支援の必要性を見落とし、「狂気」をロマン化する危険性を孕んでいる。今日では、美術史家や精神科医の共同研究によって、ゴッホの症状を冷静に分析し、創作との具体的な時間的・精神的関係を再構築する試みが進められている(Arnold, 1996)。
おわりに
ゴッホの創作と精神疾患の関係は、単なる「狂気の芸術」の神話に還元できるものではない。むしろ彼の作品は、精神的苦悩のなかにあっても自然への眼差しを通じて秩序と意味を見出そうとする、極めて人間的な芸術実践の証である。
精神疾患は彼の表現に確かに影を落としたが、それを直接的なインスピレーション源とするのではなく、むしろ創作は彼にとって生きることそのものであった。この観点に立つことによって、我々は「狂気」というレッテルを超えた新たなゴッホ像に近づくことができるのではないだろうか。
(M&C編集部 2025/8/3)
参考文献(抄)
Blumer, Dietrich. “The Illness of Vincent van Gogh.” American Journal of Psychiatry 159.4 (2002): 519-526.
Lubin, Albert J. Stranger on the Earth: A Psychological Biography of Vincent van Gogh. Da Capo Press, 1996.
Arnold, Wilfred Niels. Vincent van Gogh: Chemicals, Crises, and Creativity. Birkhauser, 1996.
Artaud, Antonin. Van Gogh: The Man Suicided by Society. 1937.
Van Gogh, Vincent. The Letters of Vincent van Gogh. Edited by Mark Roskill, Penguin Classics, 2003.
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