歴史 / 文学
Posted on 2025-12-16
古事記成立に時間を要した背景について
2025/12/16
M&C編集部・蓬田修一
古事記は、日本における最初の国家的歴史書として位置づけられている。その成立は和銅五年(712)、元明天皇の治世に太安万侶が奏上したことによって実現した。
しかし、その事業の発端は天武天皇の時代にまで遡る。『日本書紀』天武十年条によれば、天武天皇は帝紀および旧辞の誤りを正すため、稗田阿礼にこれを誦習させたとされる。
にもかかわらず、実際に古事記が完成するまでには、天武天皇の崩御(686)から約25年という長い時間が経過している。
この時間的隔たりは、単なる編纂作業の困難さだけでは説明できず、当時の政治状況や思想的要請を含めて考える必要がある。
まず第一に、天武天皇の死後に生じた政治的空白が大きい。
天武朝は壬申の乱を経て成立した政権であり、強い指導力のもとで中央集権化と制度整備を急速に進めた時代であった。
しかし天武天皇の崩御後、皇后であった持統天皇が即位するまでの過程、さらに持統朝から文武朝への移行期には、政権の安定を最優先すべき状況が続いた。
律令制定、官僚機構の整備、都城建設など、国家運営上の喫緊の課題が山積しており、歴史書編纂は必ずしも最優先事項とはなりえなかった。
第二に、国家的歴史書に求められる性格そのものが、この時期に大きく変化していった点が重要である。
天武天皇が構想した歴史編纂は、王権の正統性を内向きに確認し、皇統の連続性を整理することに主眼があったと考えられる。
しかし持統・文武朝を経る中で、日本は唐を強く意識する国際環境に置かれるようになった。対外的に自国の正当性と文明性を示すためには、中国正史にならった漢文編年体の歴史書、すなわち『日本書紀』型の史書が強く要請されるようになる。
その結果、史書編纂事業は一元化されるのではなく、性格の異なる二つの方向性――対内的・神話的な古事記と、対外的・漢文正史的な日本書紀――へと分化していったのである。
第三に、古事記が採用した文体と方法の特殊性も、成立の遅れと無関係ではない。
古事記は漢字を用いながらも、語順や助詞の用法に日本語の語法を強く残す、いわゆる和化漢文・変体漢文で記されている。
これは単なる表記の問題ではなく、日本語によって神話と系譜を語り直すという、きわめて実験的な試みであった。
そのため、内容の選択、表現の統一、和歌の配置などについて慎重な検討が必要であり、短期間で完成できる性格の書物ではなかったと考えられる。
第四に、古事記は単なる歴史書ではなく、文学的テクストとしての性格を色濃く帯びている点だ。
神話・説話・歌謡が有機的に組み合わされ、語りのリズムや反復表現が意識的に用いられている。これは記録の正確性のみを重視する史書とは異なり、「語り継がれる物語」としての完成度が求められたことを意味する。
その完成には、政治的妥協だけでなく、文学的洗練の時間が必要であった。
最後に、古事記が元明天皇の時代に完成したことの意味を考える必要がある。
元明朝は、律令国家体制が一定の安定を見せ、国家として自らの来歴を総括する段階に入った時期であった。
その時点で初めて、天武天皇の構想を継承しつつも、過度に政治的緊張を伴わない形で古事記を成立させる条件が整ったといえる。
以上のように、古事記の成立に長い時間を要した理由は、単なる作業上の遅延ではなく、政権交代、国際環境の変化、史書観の転換、そして文学的完成度への配慮が複合的に作用した結果であった。
古事記は、その「遅れ」ゆえに、結果としてきわめて独自性の高い文学史的・思想史的価値を獲得した書物であると評価できるのである。
Related Posts

