アート / コラム

Posted on 2024-04-07
初心者の西洋絵画 旧約聖書「アダムとエバ」


ルーカス・クラナッハ(父)《エデンの園》

大地の塵(ちり)から人間を作る

今回は「アダムとエバ」です。

神は天地を創造し、万物の生命体を創造しましたが、人間はまだでした。そこで次は人間を創造したのです。

神は大地の塵(ちり)で人を形作り、鼻に息をふきかけて命を与えました。これがアダムです。

神はエデンの園を作って、そこにアダムを住まわせます。

エデンの園には、食べ物がなる木を植えました。どの木の実も食べることを許しましたが、園の中央に植えた「生命の木」と「善悪を知る木」の実だけは、食べることを許しませんでした。

神はこう言ったのです。
「どの木の実も思いのまま取って食べてよい。しかし、善悪の木の実は取って食べてはいけない。食べたら必ず死ぬ!」

こういう「何々してはダメ」というストーリー、東西を問わず、昔話によくありますよね。

「絶対に見てはダメ」「絶対に食べてはダメ」などなど。

ダメと言われれば、余計そうしたくなるのが人間の性(さが)なのに。。。

でもアダムは真面目な男で、その言いつけを守りました。

禁断の果実を食べてしまう!

アダムはひとりで生きていましたが、神はアダムの助けとなるものがいないことに気付きました。

そこで、アダムが眠っている間に、彼のあばら骨のひとつから、女の人間を作り上げました。それがエバです。

「エバ」の発音ですけれど、「イブ」と表記されることが多いですよね。

ただ、聖書は「エバ」と訳しているようですので(わたしの手元にある聖書も「エバ」です)、ここでは「エバ」と表記します。

ふたりは夫婦になり、エデンの園に住みました。ふたりとも裸でした。でも、「恥ずかしい」という気持ちはなかったのです。

それから何事もない日々を送っていましたが、ある日、蛇がエバにこう言ったのです。

「園のどんな木の実も食べてはいけないと神は言ったのですか?」

エバは答えます。

「わたしたちは園にある木の実を食べて良いのですけれど、中央にある木の実は、食べたら死ぬというので、食べたらいけないのです」

蛇はこう言います。

「あなたがたは決して死にません。食べたら、目が開け、神のようになり、善悪を知ることができるのです。それを神は知っているのです」

何とも絶妙な言い回しではないですか?!

決して「食べてみろ」とは言っていない。「死ぬから食べない」とエバが言っていることを受けて、「食べても死にません」と答えています。

しかも、食べたら「神のようになる」とも言っています。何という畏れ多いことでしょう!

ちなみに、聖書によれば、蛇は動物の中で「一番狡猾」なのだそうです。

そう言われて誘惑にかられたエバは、禁断の木の実を取って食べてしまいます。しかも、アダムにも与えました。

すると、ふたりの「目」が開かれ、自分たちが裸でいることが恥ずかしくなりました。

ふたりはいちじくの葉っぱで腰の部分を隠しました。

ついに楽園から追放

そうしていると、神が歩いて来る音が聞こえてきました。

すると、ふたりは木々の間に身を隠したのです。なぜなら、木の実を食べて「善悪を知った」から。

神の言いつけを破ってしまったから隠れたんですね。

姿が見えないふたりに向かって、神はこう言います。

「ふたりとも、どこにいるのか?」

アダムは身を隠したまま答えます。

「あなた様の足音が聞こえてきたのですが、わたしたちは裸なので、あなた様の前に出るのは畏れ多く、隠れているのです」

それを聞いて神は

「おまえたちは、どうして自分たちが裸であることを知ったのか? 食べてはならぬと言った木の実を食べたのではないか?!」

怒っています。

するとアダムはこんな風に答えるのです。

「エバが食べてごらんと言って、木の実を渡したから食べたんです」

責任転嫁。情けない男ですな。

そこで神はエバを問いただします。

「おまえは何ということをしたのだ!」

強く叱責します。

それに対するエバの言い草がこれ。

「蛇がわたしを惑わしたから食べたのです」

蛇に責任転嫁。エバも大した女ではありません。

すると、神は今度は蛇に向かってこう言います。

「お前はとんでもないことをしたものだ! だから、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない!」

こうして、蛇ははって動き回るようになりました。神はこうも言います。

「お前(蛇のこと)の子孫と女の子孫との間に敵意を置く!」

今でも女性の多くが、男性からみると極端なくらい蛇を怖がっていますよね。それは、これが理由なのですね!

そして、神はエバに「子どもを生む苦しみ」、アダムには「大地から食物を得る苦しみ」を与え、楽園から追放しました。ここから人間の苦しみが始まるのです。

このエピソードは、キリスト教では「原罪」(人間のあらゆる罪の根源)として位置付けられています。

でも、興味深いことに、聖書ではこのことを「罪」とは書いていません。わたしは聖書を見ながらこの文章を書いていますが、確かに「罪」という言葉はありません。

聖書は「罪」としていないのを、後世の人間が「罪」と位置付けたのです。個人的にわたしは、とても興味深いなあと思います。

ルーカス・クラナッハ(父)《エデンの園》

ルーカス・クラナッハ(父)が描いた《エデンの園》です。1530年制作。ウィーン美術史美術館所蔵。

クラナッハは父も子どもも同じ名前で画家だったので、ルーカス・クラナッハ(父)、ルーカス・クラナッハ(子)と表記されるのが多いです。

《エデンの園》ですが、アダムの誕生、エバの誕生、知恵の実を食べようとするふたり、神に咎められるふたり、楽園を追放されるふたりの姿が、一枚の絵に描かれています。

異なる時間の出来事を、ひとつの空間に描く手法です。日本の絵巻物にも、似たような手法がありますね。

異なった時間の出来事が、同時に出現するなんて、現実では絶対にあり得ません。

それを軽々と実現させられるのが絵画。個人的に、そこが絵画の大きな魅力のひとつです。

作者のルーカス・クラナッハ(父)は、1472年にドイツで生まれました。

この年には、メディチ家の当主のひとりピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチが生まれています。

中国では、儒学者で陽明学の祖、王陽明が誕生。

日本では、室町幕府八代将軍、足利義政が朝鮮王朝(李氏朝鮮)に使節を派遣しています。

クラナッハに話を戻しまして、彼は肖像画もたくさん描いています。私たちがよく見る、教科書に載っている宗教改革の主要人物マルチン・ルターの肖像画も彼の作品です。

肖像画や宗教画のほかにも、神話に基づいた裸婦像や女性像など描いています。

また、彼はザクセン選帝侯フリードリヒの宮廷画家でもありました。

皇帝を選ぶのですから、ある意味、皇帝よりも“偉い”です。

事実、皇帝候補者たちは、自分を皇帝に選んでくれるよう、選帝候たちに金品を贈っていました。

クラナッハの同時期に活躍した画家に、アルブレヒト・デューラーがいます。日本では、デューラーのほうが知名度は高いですね。

でも、2016年に国立西洋美術館で「クラーナハ展―500年後の誘惑」が開催されると、知名度はかなり上がったように感じます。

わたしも「クラーナハ展」に見に行きました。彼の絵を本格的に見るのは初めてでした。以来、彼の“怪しい”作風にとりつかれました。

クラナッハの《エデンの園》は、絵の全体のトーンが、何となくギャグっぽいというか、呑気げというか、不思議な感覚になります。

特に人物の表情や動作には、ツッコミを入れたくなってしまうんですよね。

アルブレヒト・デューラー 《アダムとエヴァ》

マドリードのプラド美術館に所蔵されている《アダムとエヴァ》です。

かなり大きい作品で、実際の人間とほぼ等身大で描かれています。

描いたのは、クラナッハのところで少し出た、アルブレヒト・デューラーです。

デューラーは1471年、ドイツに生まれました。クラナッハが生まれる1年前です。

ちなみに、ミケランジェロは1475年生まれです。クラナッハ、デューラー、ミケランジェロは同世代ということになりますね。

若い頃、イタリアに赴き、遠近法、解剖学、人体比例論などを学びます。

当時、イタリアはルネサンスが花開いていました。理想的な人体美を追求したギリシャ・ローマ文化の復興を目指していた時代です。

彼は、中世のゴシック様式から抜け出せないでいた北方において、イタリアで学んだことを駆使し、理想的な裸体像を描きました。

《アダムとエヴァ》ですが、真っ黒な背景に、ふたりが浮かび上がっています。

イタリアでは8頭身が理想とされていましたが、デューラーは9頭身で描いています。

そのためか、エバの肩のラインはなで肩過ぎて、不自然ですね。何か、人間離れしていて、個人的にはちょっと気持ち悪いです。

当時、裸を描くのはモラル的に難しいことでした。しかし、「アダムとエバ」のエピソードは、聖書に裸で暮らしたと書かれているため、モラルを犯さずに描けるテーマでした。

裸体を描きたいと考えていた画家にとっては、ぜひとも挑戦したいテーマだったことでしょう。

エバは知恵の木のそばに立っています。右手は木から生えている枝を握り、左手で蛇から差し出された木の実を持っています。

一方、アダムはエバのほうを向いて、すでに木の実を左手に持っています。

エバが握る枝には、一枚の木の板が吊り下げられていて、そこには次のように書かれています。

「ドイツ生まれのアルブレヒト・デューラーは、聖母マリアのご出産の1507年後にこれを制作した」

☆    ☆

※この文章で引用しています聖書の文言は、筆者(蓬田)による意訳です。

※間違いのご指摘、聖書解釈についての読者の皆様のお考え、歓迎です。

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