アート / コラム
Posted on 2025-02-23
冬の絵画 ピサロ《ルーヴシエンヌのヴェルサイユに向かう道》1869年
印象派画家の父親的存在 カミーユ・ピサロ
カミーユ・ピサロ(1830年7月10日 – 1903年11月13日)は、フランスの印象派を代表する画家のひとりであり、ポスト印象派への橋渡し的な存在でもあった。
印象派展にすべて参加した唯一の画家であり、若い芸術家たちを導く中心的な役割を果たした。
家業の商売から絵画の道へ
ピサロは、カリブ海のデンマーク領セント・トーマス島で生まれた。
父はフランス系ユダヤ人の商人であり、裕福な家庭に育つ。
12歳でフランスの寄宿学校に留学し、そこで美術への興味を深めた。
青年期には家業を手伝うものの、美術への情熱を捨てきれず、23歳でベネズエラに渡り、風景画を描きながら画家としての道を模索した。
パリで絵画修行
1855年にパリへ移り、クールベやコローらの影響を受けるようになる。特に自然の光や色彩の表現に関心を持ち、戸外制作を積極的に行った。
バルビゾン派の影響を受けながらも、独自の筆致を模索し、モネ、ルノワール、セザンヌらと交流を深めた。
すべての印象派展に出品
1870年、普仏戦争を避けてロンドンに滞在し、ターナーやコンスタブルの作品に触れる。
1871年に帰国、1874年の第1回印象派展に出品した。以後、8回すべての印象派展に出品し、中心人物のひとりとして活躍した。
彼は都市の風景だけでなく、農村の労働者たちの日常を描き、「印象派の父」とも称された。
最期まで風景を描く
1880年代には新印象派(点描主義)に接近し、一時的にスーラやシニャックの技法を取り入れたが、自然の中で感じた生命感や動きが表現できないとして、点描は放棄した。
そして、印象主義へと戻った。
晩年は眼病を患い、光量の多い屋外での制作に支障をきたし、部屋の中から見えたパリの街並みを描いた。
1903年11月、パリで亡くなる。最期を迎えるまで、自然風景や都市の風景を描いた。
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