文学

Posted on 2025-08-07
仮託としての〈私〉──紀貫之『土佐日記』における語りの転位と現代文学への照射


紀貫之

文・M&C編集部

紀貫之が書いた『土佐日記』は絵画作品のテーマとしても、しばしば参照される。

男の作者が女になりきり作品を書く、という行為について考えてみた。

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「女のふりをして日記を書く」という語りの手法は、日本文学史の中でも異彩を放つものである。

それは単なる技巧的な趣向を超えて、書き手と語り手の乖離、すなわち「私」の多重性やフィクションとしての自己表象という問題系を、早くも平安中期の段階で鋭く提示していたことを意味する。

こうした語りの仮託が、現代文学においていかなる意義を持ち、いかなる共鳴を示しているのかを検討することは、単なる古典の鑑賞にとどまらず、「私」という語りの装置の本質を問い直す契機となる。

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『土佐日記』の冒頭は、よく知られるように、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」という印象的な一文から始まる。

ここで語り手は、「女」であるという仮構の自己を採用している。実際の作者が貫之であることは周知の事実であり、この言明は読者に対して明確な虚構の提示、すなわちフィクションであることの公然たる宣言である。

にもかかわらず、読者は「女」の視点から綴られる哀切な旅路と愛児の死の物語に強く心を動かされる。この錯綜した語りの構造は、読むという行為の根源にある「信じること」と「演じること」のはざまを意識させる。

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現代文学において、このような語り手と書き手のズレを意図的に活用する技法は、ジャンルを問わず多くの作家によって踏襲されている。

たとえば村上春樹の諸作品における「僕」もまた、作者自身と重なる部分を持ちつつも、明確に区別されたフィクションの語り手である。

読者はその「僕」の眼差しと感情に共振することで、あたかも作中の世界が一人称のリアルな内面告白であるかのような錯覚を享受する。

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また近年では、ジェンダー論の視点からも、仮託の語りは新たな意義を持って評価されている。

現代社会において、性のアイデンティティが多様化し、男性・女性といった二項対立が解体されつつある中で、紀貫之の試みは、固定された性に依存しない語りの可能性を早くも示していたと見ることができる。

つまり「女として書く」という行為は、単なる様式の選択ではなく、「男である私」が語れない悲哀や感情を、別の人格を仮構することで解放する試みでもあったのだ。

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さらに、仮託の語りは自己の保護装置としても機能している。

紀貫之が、亡き娘への想いを記す際、あえて「女」の筆を借りたことは、感情の過剰な露出を避け、あくまで物語の装いの中で感情を昇華するための戦略でもあったと読める。

こうした装置的自己表現は、現代のSNSやブログ文化にも通じる。現代人が仮名やアバターを用いて語る「私」は、まさに紀貫之が選んだ「女のふりをして書く私」と本質的に同じ構造を持っている。

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つまり、仮託の語りとは、時代を越えて「私とは誰か」という問いを揺さぶる装置である。

書き手のアイデンティティを相対化し、語りに自由をもたらすと同時に、読者の側にも、語り手の仮面を意識的に剥がし、虚構の深層を読み解くことを促す。

これは文学が、単なる事実の伝達ではなく、「どのように語るか」によって真実を浮かび上がらせる営みであることを示している。

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振り返れば、『土佐日記』の手法は、単に日記文学の嚆矢として評価されるだけでなく、現代の語りの問題系を先取りした先駆的作品として、再評価されるべきである。

「男が女のふりをして語る」という語りの転倒は、今日においてもなお新しく、読み手の固定観念を揺さぶる批評的な力を持ち続けている。

こうしてみると、仮託とは言葉に真実を与えるための、優雅でしかも狡猾な戦略だといえよう。

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