アート

Posted on 2025-05-27
夏の絵画 《ひなげし》クロード・モネ(1873年)


《印象・日の出》とともに、1874年の第1回印象派展に出展された作品であり、絵画史的に大きな意義を持つ。

描かれている場所は、パリから北西に10キロメートルほど行ったところにある、セーヌ川流域のアルジャントゥイユの草原だ。

モネは1870年代の多くをこの地で過ごし、この絵を描いた当時もここアルジャントゥイユに住んでいた。

季節は夏であり、空は穏やかに晴れている。

画面左側に、赤色のひなげしの花がたくさん咲いている。

画面右側、前景には、子どもを連れた母親がいて、母親は日傘を手にし、子どもの手には、何本かのひなげしの花が見える。

母親のモデルは、モネの妻のカミーユであり、子どものモデルは長男ジャンであるといわれている。

☆   ☆

左側の丘の上にも母と息子とおぼきし姿がみえる。

しかも、ふたりの姿をよく見ると、ほとんど同じような出で立ちである。

実は、手前にいるふたりも、丘の上にいるふたりも、どちらも妻カミーユと息子ジャンだと言われている。

これは「異時同図法」と言われる技法で、異なる時間を同一の画面上に描き込む絵画技法だ。日本の絵巻物でよく使われるので、見覚えがある人も多いだろう。

丘の上にいた母と子が歩いて丘を降り、いまは丘の下にいる様子が描かれているのである。

この頃のモネは、生活は苦しかったが、家族に恵まれた。

アルジャントゥイユで暮らした期間は8年に満たなかったが、そのあいだに259点の作品を描き、そのうち156点がアルジャントゥイユを描いたものだ。

この作品を描いた6年後、妻カミーユは病気で亡くなる。

パトロンであった実業家オシュデが破産してベルギーへ逃亡してしまう。

妻とパトロンを亡くしたモネを献身的に支えたのが、オシュデの妻アリスだった。

モネとアリスは1892年に結婚する。カミーユが亡くなってから13年後のことだ。

モネとアリスはその後、晩年を幸せに過ごした。

晩年のモネは経済的にも家族的にも恵まれ、天寿もまっとうし、幸福な人生を送ったが、《ひなげし》を描いたこの頃も、モネ一家にとって幸せが溢れていたのではないかと思う。

☆   ☆

《ひなげし》の西洋絵画史における意義を、いくつかの観点から解説してみる。


  1. 印象派の理念の体現

《ひなげし》は、モネが印象派の中心理念である「光と空気の一瞬の効果を捉える」ことを実践した代表例だ。

モネはアトリエではなく屋外で描くことで、時間帯や天候によって刻々と変化する光を写し取ろうとしした。

遠景の青みがかった木々や、野に咲く赤いひなげしの不規則な点描風タッチは、古典的な写実主義とは一線を画している。


  1. 構図と視覚的リズムの革新

この作品は、奥行きを線遠近法で表現するのではなく、いわば色と形のリズムで空間を表現しているといえる。

前景と中景にそれぞれ配置された母子像(モネの妻カミーユと息子ジャン)によって、視線が画面内を移動する構図も、当時のアカデミックな構図の約束事を破る手法だった。


  1. 自然と人間の関係性の再解釈

《ひなげし》では、人間は自然の一部として描かれ、自然の背景に溶け込んでいる。

これは、古典絵画における「人間中心」の構図からの転換を示した。

自然と人間との調和的な共存ともいえる。


  1. 展示と評価の歴史

この作品は、1874年の第一回印象派展に出品され、多くの批判を受けたが、それがかえって印象派の知名度を高めるきっかけとなった。

サロンの伝統的な審査基準に抗して、画家たちが自主的に開催したこの展覧会は、西洋美術の制度そのものを変革する運動の始まりだった。


  1. 色彩の革新と筆触の自由

《ひなげし》では、筆触は速く、視覚的に「ぼやけた」印象を与える。

これは、厳密な輪郭や陰影を重視する旧来の画風に対する挑戦だった。

こうした表現は、のちのポスト印象派や抽象絵画へとつながる視覚芸術の新たな可能性を開いていくことになる。


まとめ

《ひなげし》は、モネが「見ること」の本質を問い直し、絵画の役割を根本から再定義したことを示す作品といえる。

この作品なくしては、印象派という運動も、西洋絵画の近代化も語れないといってもよい。

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